我ら結社・創造

空前絶後の法大非公認サークル、結社・創造です。

よき終末を

 

 

「形あるものは全て終わりを迎える」、とはよく言うが、ここでいう「形あるもの」ってなんだろう。

ここ数十年で有体物ではない「物」が増えてきた。このブログだってそうですね。ブログやその記事は、体を持たないが、形はギリギリあるように見える。ただそれは、僕たちにはそう見えるというだけなんだろう。

 

こういうものは果たして、有限になるんだろうか。まあ、このブログに関しては有限になると思います。なぜなら有体物に依存して存在するから。

 

 

話は変わるが、皆さんはテセウスの船というパラドックスをご存知だろうか。(分かんない人はまあ、調べてください)

テセウスの船的なシステムで長く保ち続けるものってすごく多いと思う。特に有体物じゃないもの、団体組織とか、お店の在庫とか、そういう流動するもの。学校組織はわかりやすい。入学と卒業を繰り返して中身の人間はガラリと変わるのに、なんとなく長いことある程度固定のイメージを持たれている。

 

そして、学校よりさらにテセウスの船構造として相似の度合いが高いのが、サークルだと思う。学生が自主的に運営するから、教師や事務員や運営が数年では入れ替わらない学校より総入れ替えになるスピードが早い。でも、基本の機能は変わらずに続いていく(ように見える)。

 

すごく広く見れば、人体も、人間の社会も全てが流動的に入れ替わりながら存続している。

 

こういう、テセウスの船の構造をもつ、でも一つの名前の「物」は、必ず終わりを迎えるものなんだろうか。

極論、人間も学校も何もかも地球という有体物に依存しているので、有限なんだとは思う。でも、その有限は初めに示した「形あるものは全て終わりを迎える」とは性質が違うようにも感じる。

(これは理論ではなく、あくまで”感じる”という話)

 

 

そして、またこれとは別の話として、「終わりがあるから美しい」みたいな考え方もある。多分amazarashiの歌詞とかにもありました。でも、僕はあんまり賛成じゃない。

そりゃあ美少年は成長していくからこその刹那の美しさが儚くて良い、とかもわかる。でも、それってある種の「よい終わり方」だと思う。

 

例えば、僕の数少ない青春の思い出がどんなに煌めいていようと、孤独に年寄りになって風呂で事故死して悪臭漂う終わり方をしたら、それはすべてがゴミになる。だから、「終わりがあるから美しい」のではなく、きっと正しくは「美しい終わりは素晴らしい」のだ。馴染みのある言い方に直せば、「終わりよければ全てよし」なのだ。

 

 

さらにまた話は飛ぶが、「終わりは始まり」とかもよく言われるけど、僕はこれが好きではない。賛成反対とかより、好きじゃない。

もちろん、「終わりは始まり」は一つの考え方として正しい。ただ、この言葉ってポジティブに使われすぎている。実は世界の混沌さと人間の非力さを含む絶望ワードでもある、というのは哲学科のひねくれだろうか。

 

だって、体のすべてが入れ替わったテセウスの船は、本当に「テセウスの船」の名を冠したままでいるのを望んでいるわけではなくて、ただそういうものになったというだけだし。終わる選択肢を持つことができなかっただけに見えるのだ。終わりも始まりも、美化するものではなくて、ただの起点と終点なんだろう。

 

終わろうとして終われることって少ない。やっと終わったのにまた始まってしまうものも多い。どちらも、誰もが日常の中で莫大な数経験してきたことだと思う。

だから、「終わりがあるから美しい」には賛成できないし、「終わりは始まり」は好きじゃない。そして、「美しい終わりは素晴らしい」と「終わりよければ全てよし」は正しくて、その分だけ実践するのは本当に本当に難しい。

 

 

そんな風に色々考えてみると、「形あるものはすべて終わりを迎える」は、多分一応正しい。でも、今僕が思うように言い換えるなら、「在るものはすべて終わる」である。形というのが曖昧だからこそ、存在として変換する方が明瞭だ。語呂悪いけど。

 

終わりは来る。そして、綺麗に終わりたい。でも、終わり時は自由じゃない。

だからこそ、終わり時と終わり方を選べるときにはなるべく選びたい、と思う。

 

今も僕は終わりを選ぶ時期に来ている。卒業とか、まあ色々。

そして、ゆるやかにもっと遠くの終わりも可能な限り選びたい。だから少しだけ頑張ろうと思う。

 

 

新年度早々「終わり」の話でごめんね。でもかなり前向きな話のつもりです。

 

ということで、何にも目処を立てずに書いた、とっ散らかった決意表明でした。

 

 

 

よき週末を!

 

 

 

 

未知の駅