我ら結社・創造

空前絶後の法大非公認サークル、結社・創造です。

自己憐憫/自己同一性/自己本位/自己嫌悪/自己暗示

 本当に大切な物ほど、両の掌で掬っても指の隙間から溢れ落ちていく。水のように流れて掌は空になり、最後には乾いて何も無くなる。僕達は常に何か大切なものを取り溢しながら生きている。目に見えないまま気づかないままに取り溢して、ある時ふと振り返って結局溜息を吐くことしか出来ない。分かるか? 僕は僕が思っているよりずっと愚かで脆いって事。

 結局僕は様々な人から去り、様々な人から去られた。僕は僕の物差で僕の周りの物事を測って判断して見誤って失った。もっとよく話しておくべきだった人との相互理解から目を逸らし、もっと深く関わっておくべきだった人との付き合いから離れていった。もっと強く手を差し伸べるべきだった人の手を離し、もっと我慢強く接するべきだった人の関係から逃げ出した。僕は何時もそこらじゅうに転がる機会を拾い損なって失っている。ごろごろ。ごろごろ転がっている。いっぱい友達を作ろうって意気込んで大学に来たのにね。何やってんだろ。
 
 僕の血液の中にエゴが流れている。永遠の友情なんて存在しないのに僕の友達がずっと僕の近くに居てくれると思い違いをしている。それが思い違いだと理解した後でもその思い違いを正す気が無い。成長が無いからガワと年の割に幼い化け物! 化け物化け物! 放逐されて然るべき化け物! 死ね! 人ならざるモノは死ね! 永遠の友達なんてある訳がねえんだから大人しく諦めて無駄なものに噛み付くのをやめてくれ獣。愚かな動物人以下がさぁ。
 
 相手の気持ちを推し量ることが出来ていない。多分。いかんせん自分じゃ判断出来ないけど多分俺はおかしいと思われてる時がある。真面目で真面に生きたいけど真面目で真面に生きるのは悔しい。それとは別に人間的に会話能力とかがおかしい部分が多分沢山ある。流石にそのぐらいはわかっていたい。そんな人間に真っ当な人付き合いが出来るのかって話。いやたくさん出来たけどさ。関わらなく関われなくなった友達を除いてもたくさん友達できたけどさ押しつぶされそうなんだ不安に押し潰されそうなんだ潰されそうなんだ許せねえ許せねえ押し潰される! 潰れる俺と言う人間のアイデンティティが! 俺と関わってくれてありがとうな!

 失いたく無い!

 これを読んでる疎遠になった友達へ。そんな奴が居るかどうかは知らないけど俺はまだ友達だと思うことにするからどうかたまに飲みに行くぐらいはしようぜ。俺も出来るだけ真面な人間になれるようにきっと努力するからさ。真っ当な人間になれるように努力するからさ。お前に対する怒りがあっても今度だけは何度だって水に流すからさ。俺に怒ってる事がある奴は許してくれ誠心誠意謝るからさ。無いやつは普通に偶にで良いから連絡くれ。君のことだよそう君のこと。わかってるよな? 具体的なエピソードとかここに書かなくてもわかるよな? そんなの書いてたらキリねえし。人数多すぎて。

 まあ一つ頼むぜ。


:ナクシャトラ

よき終末を

 

 

「形あるものは全て終わりを迎える」、とはよく言うが、ここでいう「形あるもの」ってなんだろう。

ここ数十年で有体物ではない「物」が増えてきた。このブログだってそうですね。ブログやその記事は、体を持たないが、形はギリギリあるように見える。ただそれは、僕たちにはそう見えるというだけなんだろう。

 

こういうものは果たして、有限になるんだろうか。まあ、このブログに関しては有限になると思います。なぜなら有体物に依存して存在するから。

 

 

話は変わるが、皆さんはテセウスの船というパラドックスをご存知だろうか。(分かんない人はまあ、調べてください)

テセウスの船的なシステムで長く保ち続けるものってすごく多いと思う。特に有体物じゃないもの、団体組織とか、お店の在庫とか、そういう流動するもの。学校組織はわかりやすい。入学と卒業を繰り返して中身の人間はガラリと変わるのに、なんとなく長いことある程度固定のイメージを持たれている。

 

そして、学校よりさらにテセウスの船構造として相似の度合いが高いのが、サークルだと思う。学生が自主的に運営するから、教師や事務員や運営が数年では入れ替わらない学校より総入れ替えになるスピードが早い。でも、基本の機能は変わらずに続いていく(ように見える)。

 

すごく広く見れば、人体も、人間の社会も全てが流動的に入れ替わりながら存続している。

 

こういう、テセウスの船の構造をもつ、でも一つの名前の「物」は、必ず終わりを迎えるものなんだろうか。

極論、人間も学校も何もかも地球という有体物に依存しているので、有限なんだとは思う。でも、その有限は初めに示した「形あるものは全て終わりを迎える」とは性質が違うようにも感じる。

(これは理論ではなく、あくまで”感じる”という話)

 

 

そして、またこれとは別の話として、「終わりがあるから美しい」みたいな考え方もある。多分amazarashiの歌詞とかにもありました。でも、僕はあんまり賛成じゃない。

そりゃあ美少年は成長していくからこその刹那の美しさが儚くて良い、とかもわかる。でも、それってある種の「よい終わり方」だと思う。

 

例えば、僕の数少ない青春の思い出がどんなに煌めいていようと、孤独に年寄りになって風呂で事故死して悪臭漂う終わり方をしたら、それはすべてがゴミになる。だから、「終わりがあるから美しい」のではなく、きっと正しくは「美しい終わりは素晴らしい」のだ。馴染みのある言い方に直せば、「終わりよければ全てよし」なのだ。

 

 

さらにまた話は飛ぶが、「終わりは始まり」とかもよく言われるけど、僕はこれが好きではない。賛成反対とかより、好きじゃない。

もちろん、「終わりは始まり」は一つの考え方として正しい。ただ、この言葉ってポジティブに使われすぎている。実は世界の混沌さと人間の非力さを含む絶望ワードでもある、というのは哲学科のひねくれだろうか。

 

だって、体のすべてが入れ替わったテセウスの船は、本当に「テセウスの船」の名を冠したままでいるのを望んでいるわけではなくて、ただそういうものになったというだけだし。終わる選択肢を持つことができなかっただけに見えるのだ。終わりも始まりも、美化するものではなくて、ただの起点と終点なんだろう。

 

終わろうとして終われることって少ない。やっと終わったのにまた始まってしまうものも多い。どちらも、誰もが日常の中で莫大な数経験してきたことだと思う。

だから、「終わりがあるから美しい」には賛成できないし、「終わりは始まり」は好きじゃない。そして、「美しい終わりは素晴らしい」と「終わりよければ全てよし」は正しくて、その分だけ実践するのは本当に本当に難しい。

 

 

そんな風に色々考えてみると、「形あるものはすべて終わりを迎える」は、多分一応正しい。でも、今僕が思うように言い換えるなら、「在るものはすべて終わる」である。形というのが曖昧だからこそ、存在として変換する方が明瞭だ。語呂悪いけど。

 

終わりは来る。そして、綺麗に終わりたい。でも、終わり時は自由じゃない。

だからこそ、終わり時と終わり方を選べるときにはなるべく選びたい、と思う。

 

今も僕は終わりを選ぶ時期に来ている。卒業とか、まあ色々。

そして、ゆるやかにもっと遠くの終わりも可能な限り選びたい。だから少しだけ頑張ろうと思う。

 

 

新年度早々「終わり」の話でごめんね。でもかなり前向きな話のつもりです。

 

ということで、何にも目処を立てずに書いた、とっ散らかった決意表明でした。

 

 

 

よき週末を!

 

 

 

 

未知の駅

砂漠の狼

(結社・日替わりブログ第十二回)

 

 

 少年は自分の泥にまみれた手を見ながら考えた。ぼくの身体はいずれ砂になってしまうだろう。砂が皮をただれさせべろべろに剝がしきったあと、血の流れにも砂が混じっていき、臓器という臓器に砂がいっぱいに溜まり、最後には地平線まで延々と続くこの砂漠と全くの同じになってしまうのだ。砂でいっぱいのここで異質なのは、ぼくでも、ぼくと同じようにあばらが浮き出るほどやせ細った男たちでも、ぼくらをつまらなそうな顔をしながら監視し働かせる男たちでもない。泥と、水とで作られたレンガだ。レンガは一面の黄色い世界を突然ぶつ切るように、積み上がり、壁となっていた。それは大男の三人分くらいの高さで、壁の上には等間隔に小さな小屋のようなものがある。横幅は人が五人ほど整列しても十分余裕があり、長さは大陸を横断するほどだった。だから壁よりは長城と呼んだ方が正しいのかもしれない。しかし、それは少年のあずかり知るところではなかった。少年にとっての日々は、泥と水を混ぜ、形成し、乾燥させ、積み上げていくことがすべてであり、誰が何のために壁つくり、労働力のためにどれだけの人間が運ばれてきているかなど、少年には知る由もなかった。

 水を含んで重たくなった泥を長方形にしながら、少年は砂漠ではないどこか遠い場所へ思いをはせた。ぼくの故郷は、とてつもなく寒い場所だった気がするのだ。昼は太陽の照り返しが焦げるように熱く、夜は昼間の熱が嘘みたいに冷え切ってしまう砂漠ではない。もっとふわふわした、白い雲のようなものに囲まれた場所が、自分の生まれた場所だと少年は信じていた。気が付いた時にはもう砂漠にいたし、そんな夢のような場所はぼくの想像の中にしかないのかもしれない。それでも、途方もなく寒くて、喉の渇きに苦しむことのない白い場所を思うだけで、あっという間に仕事を終えることができた。ぼくらを働かせる男たちの叫び声も聞こえなくなった。渇きも、飢えも、日焼けと砂と労働による体の痛みも、忘れることができた。いつかこの目で、本当に白くて寒い場所があるのか確かめてみたい。きっとそこには壁も土もなくて、水をレンガではなく自分の渇きを癒すためだけに使えるのだろう。砂漠ではただでさえ水が足りないのに、レンガを作ることにばかり水が使われるので、ぼくらはいつも喉が渇いていた。喉がからから渇ききって倒れた人間がいくついるか知れなかった。ぼくもいつかあんな風に倒れて、監視の男たちにてきとうに運ばれて、それでおしまいなのだろう。

 夜、テントの中でぼろきれと呼んだ方がいいような布にくるまって寝ていると、遠くから遠吠えのようなものが聞こえた。あおーん、と五回ほど連続して聞こえて、ぼくは気になって起き上がった。まわりの人間たちは気づかず寝ていた。テントの外まで出てみても、自分と同じように遠吠え聞いたやつはいないらしく、暗闇が続いているだけだった。夢でもみていたのだろうと思い、寝床に戻った。

 今度は聞き間違いではなかった。それに、遠吠えではなく野太い男の声だった。さすがに隣で寝ていた男も起きたらしく、他に寝ているやつはそのままにテントから外を覗いてみると、誰かが目の前で獣に襲われているところだった。ちょうど腹の横のところを鋭い牙が捉え、その拍子にそいつはたいまつを落としてしまったから、その後の全貌を見ることはなかった。ただ獣の荒々しいうめき声と、そいつの叫び声だけが聞こえていた。ぼくと、ぼくと一緒にいた男はすんでのところで叫び声をこらえ、獣に気づかれないようじっとしていた。足が、手が、指先が震え始める。左手の震えを止めるために右手で腕をおさえていても、両腕が震えていたので意味がなかった。いつもとは違う喉の渇きを感じる。声が漏れそうになるのを必死にこらえていた。

 どうやら目の前と同じようなことはあちこちで起きているようだった。目を凝らせば、いつもは真っ暗なはずなのに、たいまつの火がぽつぽつと見えたし、その火のもとで逃げているような影も、または腹を空かせてしょうがないような獣の姿も見えた。時たま叫び声だか遠吠えだかが近いところから聞こえた。このとき、緊迫した状況でかえって冷静になってしまうあの感じで、少年はいままで作らされてきたレンガの壁は、この獣たちから身を守るためだったのではないかと直感した。けれども壁が完成しないうちに来られたのではどうしようもなかった。

 目の前の獣はいまにも食事を終えようとしていた。まだまだ満足する気配はない。次はぼくたちにかぶりつくだろう。そう思った瞬間、少年は自分が気づかぬ間に走り出していた。テントの中に戻り、自分の被っていた布をかっさらって、垂れ幕を押しのけて、砂漠の中を走った。あのまま突っ立っていたら、もし目の前の獣が見逃してくれたとしても、他の獣には食われていたかもしれない。それになにより、今逃げ出せば、あの労働から、あの監視の男たちから逃れることができるのだ。獣に食われて死ぬか、飢えて死ぬかの違いしかなかったとしても、ぼくは逃げ出す方を選んだ。走った。呼吸する音がいやなほど耳に響いて、ぼくは脚を動かすだけの機械になった。脚が砂に取られてもつれる。なんども転びそうになる。砂は勢いをつけた分だけ沈んでいくので、もしかしたら走らない方が体力も減らさず速く進めるのかもしれない。けれど、そんなことは機械になったぼくには関係なかった。体まで砂になってしまわないためには、走るしかなかった。

 東の空が赤くなるかならないかくらいのとき、少年は倒れた。頭はすでに働かず、体への衝撃でどうやら自分が倒れたらしいと思った。少し目を瞑った。それから次に目を開けたときには、太陽が真上まで登っていた。汗が吹き出し、暑いはずなのに、寒くて寒くてしかたがなかった。寒いので布をかぶろうと思ったが、走ってきた途中にどこかへやってしまったらしい。目の前がかすんできた。もうおわりなのかもしれない、と思ったとき、目の前に昨晩見た獣のようなものが一匹現れた。幻覚を見ているのか、ぼくは走って逃げて来たのに、結局獣に食われてしまうのか、と思っていると、次の瞬間には獣の背中に乗せられていた。獣は僕を乗せたままどこかへ歩いていく。ゆらゆらゆられて、なんだかいい気分になる。どうやら食べられる心配はしなくていいらしい。この獣は、暗い中でみていたやつとは同じ種類ではあるが体が小さく、子供なのかもしれないと思った。それに、よく見ると毛がごわごわとして分厚い。レンガを作っていたとき、土を運んでくる役目として荷台を引いてくる動物は、皮が厚く毛がほとんどなかったことを思い出した。少年は揺られながら、また目を瞑った。

 次に目を開けたとき、そこは少年が幾度となく想像した白い世界だった。今まで味わったことのないような寒さが身を刺したが、いつの間にか自分の身体にぼうぼうに生えていた体毛がこの寒さを和らげてくれていた。周囲には昨日ぼくらを襲った獣がたくさんいて、ここまでぼくを連れて来た獣もいた。ぼくは獣たちに恐怖も憎しみも感じていなかった。ただこの場所へ連れてこられたことへの感謝だけがあったのだ。

 

 

作、ぼんとぐら

 

 

あとがき

長くてすみません。読んでくれてありがとう。
ところで先日、コッ〇カワサキマイクロビキニ部というタグを知って戦慄しました。

【神回】例のあの人にあの手この手でアレを食べさせてみた

(結社・日替わり第十一回ブログ)


美人です。 いつもはブスをこき下ろしていますが、今回は彼の誕生日にちなんで、以下の文章を執筆しました。誕生日おめでとう。

初代神。部誌などでは舞浜のホームレスを自称する彼が周囲の人間からこのような呼ばれ方をするのは、彼のあんまりな「底の知れなさ」に由来する。

曰く、毎日1日3時間睡眠で活動しているとか、レスバが最強とか、自他認めるスーパージーニアスプロフェッショナルコンビニ夜勤店員であるとか、IQが500あってMENSA会員に匹敵する頭脳を持つとか、インフルエンザをほんの数時間で完治させたとか、家を3つ所持しているとか、女装姿があんまり美少女なものだからいつもナンパされてしまうとか、就活はしていないのに終活はもう始めているとか、髪の色がほうれん草のようであるとか、話題に事欠かない。

このように「ハハーン、さては二次元の存在だな?」と言いたくなるような、存在がツッコミ待ちの彼であるが、それでも弱点は一つだけ存在する。

――彼は野菜が嫌いだ。

彼が強すぎるからそんな絞りカスのような弱点しか捻り出せなかったのか、と思われるかもしれないがそうではない。というのも、彼の野菜嫌いは「かなりの」ものなのである。

我々一般人は野菜嫌いと聞くとせいぜい「あ〜、ファミレスに行くとセットのサラダ残す人いるよね」とか、「私も野菜を食べなくていいときはわざわざ好き好んで食べないよ」とかいう反応を示すだろう。しかし、

そう言ってられるのも今のうちだ!!!!(『五体大満足』(結社学祭部誌、『死について』より引用))

彼は野菜を食べない。本当に食べない。

一緒にご飯を食べに行っても(結社・創造はしっかりと新型コロナウィルス対策をしています)、野菜が目に見えて入っている料理は頼まない。ラーメンとかミートソースとかオムライスとか唐揚げとか生ハムとか、そういうものを注文する。そこまでは良い。

〜以下回想〜

ラーメン屋に足を運ぶ結社・部員たち。お待ちどうさまとラーメンが運ばれてきて、美味しそうな湯気が立ち上っている。さて、いただきますと手を合わせ、ふと横を見た私は戦慄した。

神「(細かく切られたネギをスープの中から探して全て除けている)」

私「!?!?!?!?」

〜回想終わり〜

ふーん、ラーメンに入ってるネギって思ってたより結構多いんだな、と思った。
それにしても労働と対価が見合っていないような気がする。(他のバージョンとしては、刻まれたマッシュルームを全部除ける等が存在する。)


こんな感じなので、日々の食事で絶対にビタミンとか摂取できてない。もしやその緑髪で光合成でも行っているのではなかろうか?最近ではキショい量のサプリメントを服用しているらしい。

そんな彼を結社が放っておくわけはなく。


「面白そうだからほうれん草食わしてみようぜ」


こんなわけでこのような企画が相成ったのである。
以下は私による二次創作。


▽▽▽


私たちは彼を「みんなでご飯を作って食べる会」を開催するという体で、某所にあるジョウシキ(結社・メンバーの一人)宅に招いた。
いつもなら様々な面で「加害者」側の彼だが、今回ばかりは「被害者」になるべくしてここに存在している。こんな貴重な機会に、我々はニチャ笑いを隠すことが出来なかった。

とりあえず料理ができるものは台所に移動する。私は"料理ができないわけではない"はずなのだがなぜか止められたので、台所の人間たちに後ろからちょっかいをかけることにした。

どうやら1品目は「ほうれん草のおひたし」らしい。なんだかすごく凝った作り方をしている。せいぜい私が作るときは、ほうれん草をゆがいた後に水気を絞り、鰹節を振りかけ醤油を垂らして完成、くらいだが、今回はなんと出汁から引いている。
正しく調理されて彩りも鮮やかなそのほうれん草は綺麗に盛り付けられ、遂に食卓に供された。出汁と鰹節の匂いが上品に香り、私を誘惑してくる。望み薄だが、ここまで美味しそうであればあるいは…?

と思ったが、結論からいえば彼は食べなかった。わかっていた。
聞くまでもないことだが、一応「こんなに美味しそうなのに食べないの?」と尋ねた。

「野菜とか食べるわけないでしょ」
彼はそう言った。私たちの分のおひたしが増えた。これはこれで気分が良い。

気を取り直して2品目は、ほうれん草を使ったキッシュらしい。オシャレ。
キッシュとは具体的に「パイ生地・タルト生地で作った器の中に、卵、生クリーム、ひき肉やアスパラガスなど野菜を加えて熟成したグリュイエールチーズなどをのせて、オーブンで焼き上げる。ロレーヌ風キッシュ(キッシュ・ロレーヌ)では、クリームとベーコンを加える。ナッツ類を加える場合もある。生地ごと三角形に切って皿に出す。地中海沿岸の地域でも一般的な料理である。」らしい。Wikipediaから引用。

調理風景を眺めているとキッシュに入れられるほうれん草は割と小さめに切られているらしい。バターがたっぷり使われてサクサクとしたパイ生地が、濃厚な生クリームと卵を包み込む。ほうれん草は彩りを添え、カリッと焼かれた賽の目状のベーコンが香ばしい。それでは焼きたてを召し上がれ。


「これ御大とお嬢にあげるよ」
案の定私たちのお腹に納まった。大変美味であった。

ここまで私が良い思いをするばかりだったので、この辺でキメたいところ。最後はこちらだ。
ほうれん草のプリン。なにも正攻法で攻めなければいけないという決まりはないぞ、という気合いが見て取れる逸品となっている。
抹茶プリンに見立てているらしい。ただ、ほうれん草の繊維は潰しきれなかったらしく、少しつぶつぶしているというか、溶けきっていない。正直これは好き嫌いしない私でも躊躇する仕上がりになっていた。だってプリンとほうれん草って絶対仲良くできないじゃん。
そんなわけで彼に「抹茶プリンです」と紹介した上で100回土下座して0.001mgくらいだけでも食べてもらおうとしたが、ダメだった。バレていた。
まあ、見た目があからさまだったし…………。

そんなところで彼は一息つこうと緑茶を飲んだ。怒涛のほうれん草料理3連戦だったから仕方ないね。
と、その瞬間口を開く。

「これ喉キュってなった!これなんか入れてるな?」

なんでバレたの怖!!!!!!!!!!
そう、私たちの本命は緑茶だったのである。といっても、乾燥したほうれん草をふたかけらばかり仕込んだだけだが。


結局彼の伝説に、「毒物(野菜)が体内に入ると身体が全力で拒絶反応を起こす」という新たな項目が追加されたのだった。




作、美人

特異生物学入門Ⅰ 第二回授業録

(結社・日替わりブログ第十回)

 

 帝都大学 本多英二教授

 

 えー、この授業は特異生物学入門です。大丈夫ですか? 前にあるプリントとリアクションペーパー取ってってくださいね。

 はい、じゃあ第二回、って言っても前回は単位やレポートの話と触りをやったくらいだから、今回は実質一回目なんですがね。とりあえず、前回の軽いおさらいから。

 特異生物学において特異生物が指す対象は、いわゆる巨大怪獣とイコール、ではないという話をしました。南海の孤島で見つかったマタンゴに、古代の蜻蛉であるメガヌロン、フナムシの突然変異であるショッキラス。メガヌロンなんかは小型の怪獣と言われることもありますが、マタンゴなんかは無視されやすい。そうした生物も特異生物学の範疇となることに留意しておいて下さい。

 一方で、外来知的生物、いわゆる宇宙人なんかは特異生物学には含まない。えー、例えば1957年に襲来したミステリアンや1959年にナタール人、1965年のX星人なんかは含まない訳ですね。外来知的生物は宇宙生物学という別の分野になるわけです。

 で、特異生物学と宇宙生物学の両方の対象となり得るのが…… はい、スライドに映った怪獣らです。1964年に出現したキングギドラに、1972年に出現した侵略兵器ガイガンガイガンは機械工学、生体工学の分野も関わってくるので、大学同士でサンプルの取り合いなんかがあったりして大変だったとか聞きますが……  あとは、1994年のスペースゴジラに、1999年のミレニアン、もしくはオルガと呼称される生物です。特に最後の奴は宇宙人であり怪獣でもあるという、それまでの常識を覆すような奴でしたからねぇ、世紀末にほんとに空からノストラダムスの予言の通り、恐怖の大魔王が降ってきたみたいな話題にもなっちゃって。また、ビオランテやスペースゴジラと並ぶ、数少ないゴジラ細胞との融合例でもありましたから。

 ま、こんなところが前回のおさらいといったところかな。はい、今日は特異生物学の歴史についてですね。教室前のプリントとリアクションペーパーはとりましたか? とってない人とか、後から入ってきた人は取っていってください。

行き渡ったかな?

 えー、まず特異生物学という学問が生まれたのは1954年、山根恭平博士らによるものでした。1954年、そう、ゴジラと初めて遭遇した年ですね。古生物学者だった山根恭平博士らがゴジラの出現を受けて作りました。ただ、怪獣が現れたから特異生物学が作られた、というわけではなく、現れた怪獣がゴジラだったから特異生物学を作らざるおえなかったんですね。

 実際のところ、ゴジラ以前にも怪獣が出現したという記録があります。そう、あるんです。1933年に出現した有名なニューヨークのキングコングと、1953年に同じくニューヨークに出現したリドサウルス。リドサウルスの方はゴジラの影に隠れて日本じゃ知らない人は多いかもしれませんが……  当時の写真、映像資料があまり残っていないことや、翌年にゴジラが出現したため、日本のメディアがリドサウルスを取り上げることが殆どないです。しかし、特異生物学的観点から見れば、リドサウルスには唯一無二の特徴を、しかもかなり厄介な特徴をですね、持っているんです。リドサウルスは未知の病原菌を血液中に含み、攻撃され舞った血飛沫が感染症を広げたと当時の記録に残っています。

 少し、話は逸れますが、特異生物学は学問ですが、研究によって多くの人を救うことができる学問であると誇りに思っています。特異生物学で最も主流なのはG学とも呼ばれるゴジラ学ですが、特異生物学において最も大切なのはリドサウルスのような、多くの人々から忘れさられようとしているが、実際には大変危険な生物を研究し、次に備えることだと考えます。強力な兵器だけでは勝てない、人を助けられない、救えない。だからこそ、特異生物学の研究が必要だとおもうんです。もし、病原菌を撒き散らす巨大生物が現れたときに、リドサウルスの研究が進んでいれば被害を減らせるかもしれません。

 すいません、逸れましたね。ええと、リドサウルスですが、今でこそ怪獣とみなされますが、当時は古生物学の範疇でした。化石では発掘されていたという点で既知の生物であり、巨大だったという点以外でわかりやすく特異な点がなかったんですね。リドサウルスの持ち込んだ病原菌の災害とリドサウルス本体はわけて考えられてしまい、特異生物学の成立に繋がらなかったんです。

 ですが、ゴジラは違いました。近代の兵器を一切受け付けず、高圧電流を物ともせず、あらゆる古生物の特徴と合致しない背鰭をもち、あげく放射熱線を吐く。こんな出鱈目な生物が古生物学の範疇に収まってたまるか! という理由や、山根博士がゴジラの2頭目の到来を予言していたっていうのもあって、特異生物学が成立しました。ただ、最初は2頭目が現れると信じる人も、というより信じたくない人が多く、山根博士はゴジラにあてられた、なんて新聞に中傷される、なんてこともありました。ただ、皆さんの知って通り、山根博士の懸念は当たりました。

 翌年の1955年に2頭目ゴジラアンギラスが出現しました。そして、このアンギラスという怪獣が特異生物学の基礎となりました。ゴジラアンギラスは大阪に上陸し、戦闘に至ったのですが、この時アンギラスゴジラの放射熱戦に焼かれたとはいえ、分厚い甲羅のおかげで全身が残りました。この死体を利用して、巨大生物の生態組織の採取や骨格の研究、古生物の際の明確化が可能となったのです。

 実は、日本では怪獣災害が多い割に、巨大生物の死体が手に入った例は少ないんですね。まず、先程のアンギラス、1964年のモスラ成体、1968年と1991年のキングギドラ、非常に状態は悪かったですが1975年のチタノザウルス、1993年のラドン、2003年のカメーバ。そう、この程度しかないのです。驚きでしょう? これまでに大きな怪獣災害だけでも35、6件以上起きているというのにです。2002年には、消滅したの考えられていた1954年のゴジラの骨格を丸ごと回収できましたが、研究する間もなく対G兵器に転用されてしまいました。研究できる検体は非常に少ないのです。ただ、それでも、まずアンギラスに研究成果は1956年のラドンや1958年のバランの撃退に役立ちました。ただ、その後のパシフィック製薬事件、第二次キングコング騒動とも言われたそれは、さまざまな影響を残しました。怪獣に関するモラル的な話ももちろんありますが、大型の怪獣を運ぶことが可能であるということは、その後の特異生物学の発展も相まって、一つの巨大な実験施設、というよりかは観察施設とでもいうべきでしょうか、小笠原怪獣ランドと呼ばれる怪獣隔離施設の建設につながりました。10体の怪獣の隔離に成功し、行動学的見地からの研究が大きく飛躍しました。ただ、1968年のキラアク星人襲来によって破壊され、その後の研究団体の資金難などから同様の施設が作られることはありませんでした。ただ、先ほどいったキングギドラの死体が一連の事件で確保することができ、最初で最後の宇宙怪獣の検体となりました。

 えーと、大半は特異生物を研究し、怪獣災害を減らすことを目的としていた特異生物学ですが、だんだんと科学者のモラルを問うような事件を引き起こすことになりました。

 ここで質問です。

 もし、あなたが魔法のランプを手に入れたら願い事をしますか? ただし、魔法のランプが望み通りの結果をもたらすとは限りません。

 魔法のランプを使うという人手をあげてみて。おー、大体半分くらい。

 じゃあ、使わない人は? これは……4分の1くらいかな。他の人は魔法のランプを手にいれたら何をするんでしょう。

 では、その魔法のランプがゴジラの細胞だったとしたら、どうでしょう。

 1989年のビオランテ事件がそれでした。まぁ、週刊誌などではビオランテを作った白神博士を狂気の科学者などと取り上げていましたが、白神博士でなくとも起こり得た事件でした。えー、プリントの新聞記事を見てください。これは、ビオランテ事件の前の新聞記事です。G細胞、ゴジラの細胞によってガンを治療し、強靭な農作物を開発して食料問題を解決する、なんていうように謳われています。ゴジラの特徴の一つである再生能力の高さの秘密がG細胞にあるとわかると、G細胞は遺伝子工学における魔法のランプになったんですね。特異生物学者の中にも単に怪獣の研究をし、災害への対策をするだけでなく、人類に何かしらのフェードバックがあってもいいのでは考える人が多くいました。1974年の特異生物学者だった真船博士が地球侵攻を試みた外来知的生物に協力した真船事件や、その後10年、特異生物が一切現れなかったことで、特異生物学に対する世間の風当たりが厳しいまま、予算や補助金削減など特異生物学の置かれる環境は厳しいものとなり、その状況の打開を図って、特異生物学の応用としてG細胞の利用するという動きは確かにあったのです。また、サラジア共和国でG細胞を利用した小麦の作成の研究が行われており、海外に遅れを取るべきではないという焦りもありました。サラジアの研究は爆破テロで中止されましたが、もしテロがなければバラのゴジラ化した生物ではなく、麦のゴジラ化した生物が生まれていたかもしれませんね。

 ビオランテ事件によって特異生物学はまたしても信用を失ってしまい、研究内容の透明化や、特異生物の細胞についての取り決めについてという大阪議定書の制定にもつながりました。

 こうした逆境に立たされた特異生物学でしたが、続けてモスラキングギドラが出現したことで、その重要性が再確認され、再び予補助金や予算を確保できるようになりました。その後はゴジラ幼体の確保やラドンの検体を確保することに成功し、2004年まで続いた特異生物災害群の対策に尽力していくことになりました。

 そして、再び10年後の2014年にハワイやサンフランシスコにゴジラが出現すると、2016年には東京に再びゴジラが上陸しました。ただ、このゴジラについては暫定的にゴジラと呼称されているというか、背鰭の特徴からゴジラと呼称されていますが、実際にはいくつかの違いがあり、その名称については今も議論が続けられています。特に、2016年のゴジラについて、最も詳しいと考えられている牧教授が、その災害に関連して亡くなられているので…… 研究内容を世界に対して開示しましたが、まだ進んでいません。この中に院に進もうと考えている人がいれば、このゴジラに関わる機会があるかもしれませんね。

 えー、本日はこれで終わりです。来週は特異生物の分類は可能かについてと、時間があればゴジラについて少し、触れます。リアクションペーパーは書いたら、前の教卓まで持ってきてください。          

 

            ※注意 これは東宝の世界です※                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

結社・改名案

(結社・日替わりブログ第九回)

 


「ワン!」

意訳:
「パラソルカービィの真似をして傘を刺しながらマンションの3階から飛び降りて亡くなった小学生が実在するらしい(次からは気をつけてね) 性格診断メーカーの結果が思いのほか味気なかったとき、2周目はわざとサイコパスになるような振り切った回答を選択し続けてしまう……初めてDSのブラウザーでインターネットに接続した小4の冬、画面いっぱいにロックマンエグゼの♡♡♡なイラストが出てきて世界に少し絶望した記憶がある たまにムキムキの犬いるけどムキムキの犬ってどうしたらムキムキになるんだよ 高校の文化祭の準備期間中、美術室でずっと油絵を描いていたらデッサン用の彫刻の乳首にセロハンテープが貼られているのを見つけた そのあとふと天井をみて気づいたことがある 天井に刻まれているひじき(わかる?)は不規則なひじきの集合体だと思っていたけど、不規則なひじきのパネルが何枚も貼り付けられることで天井は構成されていて、結果的にひじきは規則的なものになっていたんだ パネル単体の中では不規則な並びをしていたひじきだったけど、実はそのパネルが何枚もあって、天井として俯瞰したときにひじきは規則的なものへと変わってしまった 不規則なひじきが規則的に並べられることで成り立っている天井ひじき…世界は曖昧さで溢れている 集団の中で人望のある人間に出会ったとき俺だけはこいつを嫌わないと世界の均衡が保たれないなんて考えたこともあったけど指導力のある上司や充実した設備のおかげで確実にスキルも付きここまで大きな現場を任されるようになりましたありがとうございますっ」

 

 


捲し立てるようにそう言い放った近所のお犬がそのままひっくり返って動かなくなった…

 

 

 

 

 

最後にこのサークルの改名案を発表して終わります。ここまで読んでいただきありがとうございました。

【改名案】結社・創造→.

【改名案】結社・創造→月謝・銅像

【改名案】結社・創造→列車・騒々

【改名案】結社・創造→賢者・冷蔵

【改名案】結社・創造→発射・妄想

【改名案】結社・創造→弊社・埋蔵

【改名案】結社・創造→出社・瞑想

【改名案】結社・創造→忍者・爆走

【改名案】結社・創造→よっしゃー・やったぞ

【改名案】結社・創造→でかい・人

【改名案】結社・創造→たくましい・人

【改名案】結社・創造→頼りになる人

【改名案】結社・創造→もじもじしてる人

【改名案】結社・創造→もじもじ屋さん

【改名案】結社・創造→照れ屋さん

【改名案】結社・創造→レックウザ

【改名案】結社・創造→欺瞞

【改名案】結社・創造→毛虫

【改名案】結社・創造→たこ

 


作、本と日本刀だよ!Books and Japanese swords.

 

あとがき
みんなで熱中症になろう

抱卵

(結社・日替わりブログ第八回)

 

 

***

××日から気温が30℃をこえています。
あたたかいことはよいことです。
熱というのはエネルギーです。
エネルギーというのは生命のみなもとです。

ママが言っていました。
命はとうとくて大切なものです。
たん生はおめでたいことなのです。

お母さまは新たな命を産むために努力しているのです。
ぼくたちの兄弟を産むためにがんばっているのです。
そろそろ時間になるでしょう。
ぼくたちの兄弟はやさしいお母さまの手の上に生まれ落ちます。

お母さまはこれまで大変ご苦労なさいました。
多くの場所で何度も失敗してきました。
最後のチャンスを果たすのにこの街はふさわしいのです。
ママは喜んでいました。

ついに2週間が経とうとしています。
たまごは十分に温められました。
今日を無事にむかえられたことに感謝いたします。

***

 

 

 彼が教会を出ると、今年一番高く見える太陽が雲ひとつない空に手を広げていました。まだ柔らかい肌を熱が焼いて、光が突き刺します。それでも痛みは喜びだと、ママが語ったことを思い出せば自然と笑みが溢れます。

 家に向かう道には、人も犬も猫も蟻もいませんでした。ちょうど太陽しかない空と同じように、彼は彼にとっては広い道の真ん中を、一人で歩いていました。


 彼の家のある住宅街に入ると、「穴」があることに気がつきました。同級生の住む家が、そこだけ抉り取られたようにただ浅く「穴」になっていました。「穴」は彼の家に近づいていくほど増えていきました。教会を出てそれほど歩いていませんが、彼のシャツは汗まみれでした。

 彼の家はやはり、「穴」になっていました。屋根裏部屋のある2階建ての立派な家は、浅く地面ごと抉り取られて無くなっていました。彼は道路に立ったまま、その「穴」を黙って見ていました。


 しばらくして、頭がクラクラしてきました。ジリジリと蒸されるような感覚は、昨日までの暑さとは比べ物にならないものです。朦朧とした意識の中で、彼は自分の後ろにこの暑さの意味がいると直感します。

 


 「「ඁ腹㲳った⎈ブ瓚ඁ섰」」

 


 後ろから、高く声を上げながら兄弟は近づいてきます。バサバサと大きな羽音が彼の背中を叩きました。それでも、彼は「穴」を見つめ続けています。

 


 「「れしノⱪ༠?」」

 


 兄弟はついに彼の身体に触れます。暑さに体力を奪われた軽い身体は簡単に持ち上がります。彼は抵抗をしません。ママは言いました。「お母さまは幸福に導いてくれるのですよ」と。兄弟は、お母さまの子であり、大切な生命です。彼はそれを分かっていました。

 


  死を前⡨して氍持ꀂが惡遄
  㙗だし蛁マ゗は全Ѧでし魟
  彼に침豣て
  神楃で꽴た
  僞マまにとヺて母な붋神が휟⍆칠った히う፫

 

 

 


 __________ごくん。

 

 

 

 


作、みちのえき

 

あとがき
暑いですね。外出たら死にますよ。